マインツのドミナ:道はミュンヘンへ続く
マインツでドミナを探してこのページにたどり着いたなら、私の答えははっきりしている。ゲストと対面で会うのは、ミュンヘンのStudio 60に限られる。マインツそのものでは、私を予約できない。旧市街でも、ライン川沿いのほかのどこでも。あるのは、南へ向かう道だ。そして、最初の列車の旅よりずっと前から始められるつながり。ビデオ通話で、課題で、文字で。
マインツから来るゲストは、こう進めること:
- 日時を選ぶで種類を決める。選べるのは、1時間のセッション、3時間のインテンシブ、45分のリモート。あわせて日と時刻も選ぶ。
- まさにその時間のために、Studio 60の部屋をスタジオに直接予約し、前もって支払っておく。予約のスクリーンショットは、リクエストと一緒に私に送る。
- ワンクリックでWhatsAppかTelegramが開く。私に宛てたメッセージは、料金と受付番号まで含めて、すでに書き上がっている。返信し、確定するのは私自身。それまでは何も決まらない。€50のデポジットを払えば予約は押さえられ、その額は料金から差し引く。
料金は1時間€250、20時以降は1時間€300。これに、Studio 60のルーム料金が加わる。そのほかのことは料金と予約にまとめた。まだ旅をする気になれないなら、リモートセッションから始めればいい。45分のビデオ通話で、世界中どこからでも、€180から。私が話し、書くのは、ドイツ語か英語だ。
この先の物語は、遠隔コントロールをめぐるもの。文字で届く指示と、それを直すのではなく従うことを学ばなければならない一人の男の話だ。ライン川の対岸から来るゲストには、ヴィースバーデンのドミナに別の物語がある。
夜のマインツ:キルシュガルテン、KUZ、そして第五の季節
マインツは、祝祭をワインと季節で測る。夜の多くの時間は、ワイン酒場で過ぎていく。そして年に一度、ここで謝肉祭を指す「第五の季節」が、街全体をのみ込む。知っておくべきこと:
- キルシュガルテンとアウグスティーナー通り:旧市街の小さな広場。木組みの家々と1932年のマリエンブルンネン(マリアの泉)があり、夜の始まりとしては静かなほうだ。すぐ隣のアウグスティーナー通りに入ると、人が増え、にぎやかになる。古いワイン酒場では、地元の人と旅行者が同じテーブルにつく。
- ライン河畔のKUZ:この文化センターは1981年から続いている。拠点は1888年に建てられた赤れんがの建物で、かつては駐屯部隊の洗濯場だった。ヴィンターハーフェン(冬の港)と川岸のすぐ近くにある。2018年に終わった改修のあとは、Werkhalle(作業ホール)とLehrsaal(講堂)で、夏には庭でもプログラムを組む。コンサート、パーティー、カバレット(風刺の舞台)、そして夜ののみの市。
- Kulturclub schon schön:2010年から、グローセ・ブライヒェ通りにある。コンサート、パーティー、バー、カフェ。月曜はジャムセッションとジャズが交互に、火曜はライブ。どちらも、入場料は払いたい額を払う方式だ。水曜から土曜までは、23時にパーティーが始まる。
- ファストナハト(謝肉祭):1982年から、新しい謝肉祭のシーズンは11月11日の11時11分、シラー広場に面したオスタイナー・ホーフのバルコニーで幕を開ける。読み上げられるのは、11か条からなる「道化の基本法」。マインツ・カーニバル協会の推計では、ローゼンモンターク(薔薇の月曜日)のパレードには毎年50万人かそれ以上が集まる。同じ広場に立つ謝肉祭の噴水は高さ8.5メートル、1967年の除幕で、200体を超えるブロンズ像を載せている。
- 一夜明けた土曜の朝:マインツのワイン生産者たちが開くMarktfrühstück(市場の朝食)は、1999年から続いている。土曜の9時から15時まで、2026年のシーズンは3月7日から10月31日まで。リープフラウエン広場が工事中のため、今年は3つの広場に分かれ、広場ごとに別のワイナリーが店を出す。
マインツのフェティシズムのシーンについて、自分で確かめられないことはここに書かない。同じ嗜好をもつ人と知り合いたいなら、ライン・マイン地域全体に目を向けること。そうした集まりはたいてい、関連するプラットフォームで告知されるStammtisch(定期的に開かれる気軽な集まり)だ。この地域にもプロのドミナのスタジオはあるが、よそのスタジオの名は挙げない。日常とセッションのあいだに意識して距離を置きたい者は、どのみちライン川の向こう岸よりずっと遠くまで旅をすることになる。
パンとソーセージとワイン、グーテンベルク記念碑のそばで
10月のその土曜日、私がマインツにいたのは、人のためではなく一冊の本のためだった。グーテンベルク博物館はリープフラウエン広場の建物を明け渡し、シェルバウと呼ばれた棟はすでに取り壊されている。聖書は当面、仮の住まいである自然史博物館に収められている。かつてクララ会の修道女たちが食堂にしていた部屋で、床から浮いているように見える黒い立方体のなかに。1段に42行。誰かが一文字ずつ鋳造した活字で組まれている。どの活字も、左右が逆になっている。紙の上で、正しい向きに立つように。
リープフラウエン広場が工事中のため、マインツのワイン生産者による市場の朝食は、今年は3つの広場に分かれている。ライン川沿いのフィッシュトーア広場、謝肉祭の噴水を囲むシラー広場、そしてグーテンベルク広場と州立劇場のあいだのトリトン広場。私はトリトン広場へ行った。Weck, Worscht un Woi。丸パンとソーセージとワインのことだ。10月には、濁った新酒のFederweißerと玉ねぎのタルトも並ぶ。私はグラスを受け取り、立ち飲みのテーブルについた。隣の広場に立つブロンズのグーテンベルクが見える場所だった。トーヴァルセンが手がけ、1837年に除幕された像だ。顔は理想化されている。彼の時代に描かれた肖像は、ひとつも残っていないからだ。
同じテーブルに、ワインを飲んでいない男がいた。前には校正刷りが広げられ、手には赤ペン。丸パンの横には、水のグラス。彼はコンマをひとつ消し、別の場所にひとつ書き入れた。
「土曜日に校正ですか」と私は言った。
「いつも校正しています。編集者ですから。他人の文のなかで、一生を過ごしているんです」
彼をM.と呼ぶことにする。40代後半。ネクタイは、土曜日にしてはわずかに整いすぎていた。グーテンベルクについては私より詳しく、そのことを楽しんでもいた。それから彼は、ウィトゲンシュタインを引いた。まるでこんな場面のために、その一文をとっておいたかのように。「私の言語の限界が、私の世界の限界を意味する」
「では、誰の文になら従う?」と私は尋ねた。改まった二人称のSieから親しい間柄のduへ、断りもなく切り替えて。
赤ペンが宙で止まった。「誰のにも。私は直すんです」
「なら、あなたの世界は、他人の誤りの縁でちょうど終わっている」
彼は笑わなかった。私の仕事を尋ね、私は一文で答えた。彼はペンを、校正刷りの上に横向きに置いた。何かを通行止めにするかのように。彼が私を見つけるための名前を、私は教えた。「書いてくるなら、直していない一文を」。それからグーテンベルク記念碑の前を過ぎて大聖堂のほうへ歩き、一度も振り返らなかった。
3度の推敲と1本の万年筆
最初のメッセージは、日曜の夜に届いた。誤りはひとつもなかった。だからこそ、彼がそれを書いたのではなく、編集したのだとわかった。尋ねると、3回書き直した、と彼は認めた。
私は指示で返した。これからは手書きで書いてくること。万年筆で、インク消しは使わず、線を引いて消すこともしない。ページを写真に撮り、そのまま送ること。そして、私から届くものは何ひとつ直さないこと。
次に、事前の話し合い。最初は文字で、それから電話で。血圧は問題なし、服用中の薬もない。ただ、右の手首に腱鞘炎を抱えていた。だから、書く時間は一度に15分までと決めた。彼のリミットは、こうだった。仕事を危うくするものは何もしない。同僚が肩越しにのぞき込むかもしれない課題は出さない。襟より上には、どんな跡も残らないこと。ケインは、いつかミュンヘンまでたどり着くことがあれば、受け入れる。ただし数えながら、最初は12回まで。
セーフワードに彼が選んだのは「Fischtor」(魚の門)。毎朝、出版社へ向かう途中で横切る、ライン川沿いの広場の名だ。その一言で、すべてがすぐに終わる。ビデオ通話の最中でも、私が話すことを禁じた直後でも。黙っていなければならない場面のために、合図もひとつ決めた。手のひらで机を2回叩くこと。
ルールは1ページに収まった。7時半に、どう眠ったかを一文。22時に、何に従ったかを一文。私の返事は、私が望むときに届く。あるいは、届かない。
4日目、私はドイツ語でこう書いた。「Morgen um halb acht schickst du mir ein Satz über deine Hände」。明日の7時半に、自分の手について一文を送ること。誤りはわざとだ。ドイツ語の文法なら、ここはeinen Satzでなければならない。彼は時間どおりに、自分の手についての一文を送ってきた。そしてその下に、小さく、鉛筆で:einen。私は一日じゅう黙っていた。夜になって、こう書いた。昨日の私の指示を、書かれているとおりそのままに、20回書き写すこと。送られてきたページで、彼の筆跡ははじめて震えていた。11回目のein Satzのところで、と彼はあとで書いてきた。誤りが見えなくなり、私の声が聞こえはじめた、と。
私の側では、文は正しい向きに立つ
ビデオ通話のセッションは、毎週木曜の21時、45分と決めた。彼はノイシュタット地区の自宅で、机の前にひざまずいた。ノートパソコンは辞書の山の上に、カメラは目の高さに。前に置かれているのは、万年筆と便箋だけだった。
私が口述し、彼が書いて、そのページをカメラにかざす。自分の姿が映る小さな窓のなかで、彼の文字は左右が逆に見えた。たいていのソフトは、自分の映像を鏡に映したように見せるからだ。私の側には、正しい向きで届いた。「あなたには、自分の文が左右逆に見えている。私には、正しい向きで見えている。誰のために書いているのか、それに慣れなさい」
ときには何分も、私は黙っていた。彼は腕が重くなるまで、ページを掲げ続けた。2回目のセッションで、彼が右手を振ってほぐすのが見えた。1から10のどこにいるかと、私は尋ねた。6、と彼は答えた。腱が引きつれている、と。私は時間が終わるまで、ペンを置かせた。締め切りを守るために痛みを黙っておくことを覚えた男は、私のもとではまず、本当のことを言うことから学ばなければならない。
10月の最後の土曜日を前にした金曜日、彼の郵便受けに、ミュンヘンの消印のある封筒が届いた。なかには小さな封筒が5つ。それぞれに時刻が書いてある。どれも、その時刻より前に開けてはならない。9時:グレーのジャケット、ネクタイなし。10時:フィッシュトーア広場へ。ワイン生産者のほかは誰とも言葉を交わさないこと。その相手とも、注文だけ。11時:丸パンをひとつ、立ったまま食べること。目の前にはフィッシュトーアの噴水。石の球の上を魚が跳ねる噴水で、マインツの人々はそれを「Quellmänner un Hering」(皮ごと茹でたじゃがいもとニシン)と呼ぶ。12時:川岸に沿って20分。正時ごとに、私へ一文。13時、最後の封筒:「家へ帰ること。今日はもう何も書かないこと」
22時には、何も届かなかった。彼は従ったのだ。朝になって、彼は書いてきた。グラスを掲げる人の群れのなかで噴水のそばに立ち、何年かぶりに、ワインリストも看板も頭のなかで直さなかった。ただ、そこにあるものを読んだ、と。私は一語で返した。「よろしい」
Studio 60での鏡文字
彼がミュンヘンに来たのは、11月はじめの水曜日だった。乗り換え1回、列車で4時間あまり。しらふで、約束より30分早く着いた。Studio 60の部屋は自分で予約していて、スクリーンショットはとうに私の手元にあった。私は13時まで彼を待たせた。
部屋の真ん中には、テーブルと椅子。テーブルの上には、彼の万年筆と紙と手鏡。私は腱のことを、血圧のことを、そしてあの言葉のことを尋ねた。「Fischtor」と彼は言い、私はそれを確かめた。一度口にすれば、すべてが終わる。それから、彼の左の手首に革の手枷を巻き、椅子の肘掛けに留めた。革と肌のあいだには、指が2本入った。彼の目の前で、それを確かめた。15分ごとに彼はペンを置き、手を休ませる。事前の話し合いから、ずっとそうしてきたように。
「私の言うことを書きなさい。鏡文字で、グーテンベルクの活字のように。読むのは私。あなたではない」
25年間すべての言葉を確かめてきた者にとって、鏡文字は一種の盲目だ。目が確かめているものを、手がもう知らない。ルールは最初の一語の前に告げてあり、彼は受け入れていた。自分の文字に線を1本引くたびに、ケインで1打。清算は、その1枚を書き終えたときに。12打が限度。3語目で、彼は1文字を線で消した。私は数だけを口にした。「ひとつ」。数が増えるたびに、彼の息は浅くなった。
1枚目が終わったとき、数は5になっていた。私は手枷を外し、彼を立たせて、両手でテーブルに体を支えさせた。彼は声に出して数え、私も一緒に数えた。「ひとつ」のとき、彼の声は帳簿に数字を書き込む男のようだった。「いつつ」のときには、もう違った。私は肌を確かめ、今どこにいるかと尋ねた。「7です。手は大丈夫です。頭のほうが、大丈夫じゃない」。正直な答えだった。私はそう伝えた。水を渡し、彼が自分から「5」と言うまで、必要なだけ時間を与えた。彼がもう一度座ったのは、それからだ。
彼が線を引いて消すのは、間違えるからではなかった。自分が間違えているのかどうか、わからないことに耐えられなかったからだ。だから、私は口述を変えた。2枚目では、ひどい誤りを含む一文を与えた。どの原稿でも、彼なら必ず赤を入れたはずの誤りだ。そこでペン先が止まった。1秒、2秒、3秒。部屋に聞こえるのは、彼の息と、暖房がかちかちと鳴る音だけ。それから、彼は書き続けた。私の誤りを書き、線で消さなかった。
私は紙を鏡にかざし、誤りごと声に出して読んだ。彼はうなだれた。その午後はじめて、彼はもう私に逆らって働いてはいなかった。
規則に従うとは、規則を読むことではない
最後の1時間に入ると、私は彼がトリトン広場で名乗り代わりに口にした、あの一文を口述した。彼はペンを紙から離さずに、それを鏡文字で書いた。私が鏡を差し出すと、彼はその日はじめて、自分でそれを読んだ。正しい向きで、私が手にした鏡のなかに。
ウィトゲンシュタインがその一文を書いたのは若いころ、『論理哲学論考』のなかだ。のちに『哲学探究』で、彼は編集者にとって危険な問いを追った。規則に従うとは、どういうことか。「それゆえ『規則に従う』ということは、ひとつの実践である。そして、規則に従っていると信ずることは、規則に従うことではない」。M.は生涯、自分は規則に従っていると信じてきた。実際には、規則を管理していたのだ。すべての指示を読み、解釈し、直し、何が有効なのかを最後には自分で決める。そんなふうに読む者は、決して従わない。編集するのだ。
その一つ前の節でウィトゲンシュタインは、解釈ではないような規則の把握がある、と書いている。そして少しあとに、私がいちばん好きな文が来る。「私が規則に従うとき、私は選択しない。私は規則に盲目的に従うのである」。彼が言おうとしたのは服従ではなく、長く身につけた実践の、当たり前の確かさだった。それでもスタジオでは、私はこの文を私なりに読む。もう自分の鏡文字を確かめない男の描写として。
服従は、解釈が終わるところで始まる。考えることが禁じられているからではない。意味を担うのが、別の人間だからだ。二人の部屋では、私が書いたことが、書かれたとおりの形で効力をもった。3時間のあいだ、彼の世界はちょうど私の文と同じ大きさだった。幽閉のように聞こえる。彼が味わったのは、その反対だった。何年かぶりに、自分自身の最初の読者でいなくてよかったのだ。
グーテンベルクは、金属について似たことを知っていた。活字は逆向きにできている。刷り上がりが正しくなるように。活字は自分の文を決して読まない。ただ担うだけだ。私にとって、力とは読む権利のこと。献身とは、読まれているあいだ自分がどう見えているのかを知らないまま、読まれることを引き受ける覚悟のこと。
最後に、私は白紙を彼の前に置いた。あなた自身の一文を、鏡文字で。彼は長いあいだ書き、何も消さなかった。私はそれを鏡で読み、紙を折ってポケットにしまった。何が書いてあったのか、私は彼に一度も言っていない。『論理哲学論考』の最後には、「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」とある。ときには、それで足りる。一人が読み、もう一人が、読まれたことを知っている。
シラー広場、11時11分
彼はその日の夜のうちに、ライン川のほとりへ戻った。22時に報告が届いた。列車のなかで撮った写真。ふつうの向きで書かれた一文に、つづりの誤った語がひとつ。直されないまま。私はそれを、そのままにした。それは彼のものだった。
ミュンヘンでの紙は、私の手元に残した。12打のうち残った7打も。それがあることを彼は知っている。けれど、私がいつそれを求めるのかは知らない。求めるのはミュンヘンで、そのとき彼がもう一度受け入れた場合に限る。予約と予約のあいだも、私は離れたところから彼を導き続けている。朝の一文、夜の一文、木曜のカメラ。翌週、同僚の女性が彼に、どこかへ出かけていたのかと尋ねた。雰囲気が違う、と。ミュンヘンに行っていた、と彼は答えた。それ以上は、何も。
11月11日、水曜日。彼は午前中に休みを取っていた。11時11分、彼はシラー広場に立っていた。内ポケットには、ミュンヘンで私が渡した封筒。オスタイナー・ホーフのバルコニーから「道化の基本法」が読み上げられるまでは、開けることを許されていない。まわりには道化帽とトランペット、赤、白、青、黄。誰も本気では言っていないのに誰もが守る法に、ひとシーズンのあいだ従う街。封筒のなかには、私の手で書いた一文。鏡文字で。
彼は鏡を持っていなかった。それでも読んだ。一文字ずつ、右から左へ。ブロンズの道化たちがひしめく謝肉祭の噴水の前で。隣に立つ誰ひとり、彼が何をしているのか知らなかった。その一文に何が書いてあったのかは、二人のあいだにとどめておく。言えるのはこれだけだ。そこには、誤りがひとつあった。M.は、それを直さなかった。
ゲストブックの2つの声
M.は架空の人物だ。次の2つの書き込みは、そうではない。どちらも私のゲストブックに、ドイツ語の原文のまま一字一句載っている。書いたのは実在のゲストで、ここでは原文に忠実に訳した。M.のものでも、この物語のほかの誰のものでもない。ここに置くのは、どちらも自分の経験から、私が同じ部屋にいないときに私の導きがどこまで届くのかを語っているからだ。そのいくつかが、物語のなかで響いているとしても。
「仕事で10日間、アジアにいた。そこでも彼女は私を導いた。毎日の課題、短い報告、厳格な決まりごと。11,000キロの距離を越えて。私は、飛び立ったときとは別の男になって帰ってきた。誰も、その理由を知らなかった」——ゲストブックの書き込み(ドイツ語から翻訳)
「土曜日を丸一日、彼女の導きのもとで過ごした。何を着るか、いつ食べるか、誰と話すか。決めたのは彼女だった。私は外に出て、ふつうの暮らしのなかにいたのに。誰も何ひとつ気づかなかった。私の内側は、ほかの何とも比べようのない状態にあった」——彼女の道具、ゲストブック(ドイツ語から翻訳)
現実の遠隔コントロール:物語のどこまでが本当か
物語は、何週間もの時間を数ページに縮めている。現実には、遠隔コントロールは事前の話し合いから始まる。そこで私は、あなたの日常がどんなもので、何に耐えられるのかを知りたい。誰が肩越しにのぞくかもしれないのか。いつ一人になれるのか。どんな課題なら仕事に触れてしまうのか。あなたの体も、その一部だ。心臓と循環器、服用中の薬、アレルギー、古いけが。私のために書くことになるなら、敏感な手も。こうしたことは、あらかじめSafe Room(会員エリア)のプロフィールに書いておくのがいい。同意・健康状態・責任に関する宣言書には、リクエストを送る前にそのつど同意すること。
- セーフワードと手の合図:セッションの前には毎回、セーフワードを決める。スタジオでもカメラの前でも、それでどんな行為もすぐに止まる。黙っていなければならない場面のためには、手の合図を加える。途中で私は、あなたが今どこにいるかを尋ね、正直な数字を求める。詳しくはタブー・リミット・安全へ。
- ビデオ通話で:リモートセッションは45分、€180から。デポジットを差し引いた残額は、開始前に支払う。内容は、精神的な導き、課題、屈辱、貞操管理、貢ぎ物。
- 予約と予約のあいだの課題:朝と夜の報告、口述、丸一日のルールは、事前の話し合いで一つひとつ取り決める。ひとりでに続くものではない。いつ始まり、いつ終わるかは、私が決める。
- スタジオで:手枷、ロープ、ベルトによる拘束、前もって合意した回数を数えながら行うケイニング(ケインで打つこと)、尋問、屈辱は、1時間料金に込み。貞操管理には最低120分が必要で、精神的な責めも同じ。これに加えて、Studio 60のルーム料金が必ずかかる。
内容と強さは、合意した範囲のなかで私が決める。特定の行為を求める権利はない。性交なし、オーラルセックスなし。距離を置いた導きが何週間にもわたってどう働くのかは、エッセイ遠隔コントロールに詳しく書いた。
マインツからミュンヘンのStudio 60へ
マインツ中央駅からミュンヘン中央駅までは、列車でおよそ3時間半から4時間あまり。今のところ直通のICE(高速列車)は早朝の1本だけで、それ以外はたいてい1回乗り換える。時刻表は変わるので、自分の日の接続を確かめておくこと。ミュンヘン中央駅からは、Sバーン(近郊電車)で市の北西部へ向かう。住所を伝えるのは、予約を確定し、デポジットを受け取ってから。
マインツから来るゲストに、計画のために伝えていること:
- 午後に始めること:4時間あまりの移動が控えているなら、午後の予約を選ぶ。13時に始めるなら、早朝の列車に乗れば、1時間のセッションでも3時間のインテンシブでも、たいていはその日の夜のうちにライン川へ戻れる。
- まず部屋を:リクエストする時間に合わせて、Studio 60の部屋を先に予約して支払う。それから、スクリーンショットを私に送る。
- 時間どおりに、しらふで:朝からFederweißerを飲まないこと。土曜日であっても。酒を飲んできた者は迎え入れない。列車が遅れたら、すぐに連絡すること。連絡なしに30分以上遅れれば、予約は無断キャンセルとみなす。遅刻しても、時間は延びない。
- まずカメラ、それから旅:まだ移動する気になれないなら、リモートセッションで私を知ればいい。マインツの画面の前で始まり、ミュンヘンで終わる道もある。
守秘は互いに。私はあなたの勤め先を尋ねないし、スタジオで起きることを、マインツの誰かが私から聞くこともない。テューリンゲンから来るなら、エアフルトのドミナにあなたの道がある。