ザールブリュッケンのドミナ:ザール川からのリクエスト、ミュンヘンでのセッション
ザールブリュッケンでドミナを探していて私のページにたどり着いたなら、まずひとつだけ知っておくこと。私がゲストを迎えるのはザール川のほとりではなく、ミュンヘンのStudio 60だ。ザンクト・ヨハナー・マルクトから私の扉までは、いちばん速いICEでも4時間あまり、たいていはもう少しかかる。この距離は、利点にもなりうる。マルクトと、川沿いのシュターデンと、駅のあいだで、いやでも同じ顔に出くわし続ける。そんな街にいるなら、はるか南東での予約は、それだけで自分ひとりの部屋になる。
ザールブリュッケンからのリクエストは、次のように進む:
- 日時を選ぶで、まず種類を決める。1時間か、3時間のインテンシブか、45分のリモートか。続いて日と時刻を。
- ワンクリックでWhatsAppかTelegramが開き、料金と受付番号の入った文面がもう用意されている。返信するのは私自身。予約が成立するのは、私が確定したときだけだ。
- 予約を確保するのは€50のデポジット。その額は料金から差し引く。部屋はStudio 60に、あなた自身が直接予約して支払う。その予約確認を、スクリーンショットで私に送ること。
20時より前に始まる1時間は€250、20時以降は1時間€300。どちらにも、別途Studio 60のルーム料金がかかる。ほかのことはすべて料金と予約にある。ミュンヘンまで来られないなら、リモートセッションで私に会える。ビデオ通話で45分、世界中どこからでも、€180から。私が話し、書くのはドイツ語と英語。毎日ザールブリュッケンとフォルバックのあいだで国境を越えている人も、私に書くときはこの二つのどちらかで。
この先の物語が扱うのはマスクトレーニング。目隠し、フード、沈黙。物語を別の街から始めたいなら、シュトゥットガルトのドミナを読むといい。ミュンヘンへ向かうあなたの列車も、たいていはシュトゥットガルトを通る。
夜のザールブリュッケン:マルクト、ナウヴィーザー地区、Garage
ザールブリュッケンのにぎわいは狭い範囲に収まり、その多くはザンクト・ヨハナー・マルクト(St. Johanner Markt)から始まる。広場を囲む旧市街は1978年から歩行者専用区域で、18世紀に建った市民の館、ビストロ、レストラン、酒場が並ぶ。すぐ隣を通るのが、細いフレッシェンガッセだ。18世紀に旧市壁に沿った職人の小路として生まれ、1970年代の終わりに修復された。その小さな家々には、いま店や飲食店が入っている。11月と12月には広場にクリストキンドル・マルクト(クリスマスマーケット)が立ち、夏には旧市街祭り(Altstadtfest)が路地を埋める。この街はフランス流のsavoir-vivre(暮らしを楽しむ術)を好んで売り物にするが、それは単なる宣伝文句ではない。フランスは数キロ南から始まり、路面電車ザールバーンはサルグミーヌまで走っている。
北へ数分歩けば、ナウヴィーザー地区に出る。この街の夜の中心とされる一帯だ。ナウヴィーザー通りとマックス・オフュルス広場のまわりに、1860年から1920年までの数十年に建った家々が並び、そのあいだで独自の酒場と夜の文化が育ってきた。ナウヴィーザー通りでは映画館kino achteinhalbが上映を続け、ラントヴェーア広場ではザールラント州立劇場が、かつての消防署アルテ・フォイアーヴァッヘで公演を行っている。ブライヒ通りのGarageでは、コンサートやパーティーが開かれる。告知された2026年10月の出演者には、The SubwaysとMadsenも名を連ねる。
よそから来る人々のものになる週もある。1月にはマックス・オフュルス賞映画祭が開かれ、2026年で47回目を数えた。2026年5月の終わりには、この地域のプライドイベントであるCSD SaarLorLuxのパレードが、市の中心部を進んだ。警察の発表では、その沿道を最大8万人が埋めた。祝祭はそのあと、マインツァー通りのストリートフェスティバルへと続いた。
ザールブリュッケンでBDSMスタジオを探しているなら、ここにはザール川沿いの住所も、ほかの誰かの名前も載っていない。私の部屋は、ミュンヘンのStudio 60だ。日常とセッションのあいだに数百キロを置きたいなら、列車に乗りなさい。
11月の第3木曜日のボジョレー
この物語はまったくのフィクションだ。F.も、彼のセッションも、存在しなかった。市場の広場と噴水と橋は本物で、ザールブリュッケンに行けば見つかる。
11月の第3木曜日、ザンクト・ヨハナー・マルクトは濡れた石畳と若いワインの匂いがする。毎年この日に、その年のボジョレー・ヌーボーが解禁される。広場の縁に並ぶビストロは、クリストキンドル・マルクトの最初の屋台のあいだに、背の高いテーブルを外へ出していた。私は2日間の予定でザールブリュッケンに来ていた。数キロ先でフランスに変わる州都に、興味を引かれてのことだ。夕方、人波に押されて、私はそのテーブルのひとつにたどり着いた。
私のテーブルは、市場の噴水の近くにあった。鉄の柵に囲まれた、1759〜60年のバロックの噴水だ。そこから数分下るとアルテ・ブリュッケ(旧橋)に出る。渡った先、ザール川の対岸には城館が建っている。足もとの石畳は、70年代の終わりに広場が歩行者専用になったとき、彫刻家パウル・シュナイダーが設計したものだ。まわりには古いファサードが立ち並び、二つの言語の声が、組み合わされる両手の指のように互いのなかへ滑り込んでいた。
隣のテーブルの男は、飲んでいなかった。グラスを道具のように持ち、唇を動かしていた。そばのグループが、今年のワインはバナナの味がしすぎるかどうかで言い合っていた。彼の唇は、半秒遅れでそれを追っていた。いつも、もう一方の言語で。
「訳していますね」と私は言った。
彼は、暗算の途中で邪魔された人のように口を閉じた。「職業病です。会議通訳者でして。フランス語とドイツ語の」。彼はF.と名乗った。ブースではおよそ30分ごとに交代するのだと話した。自分の声を聞くために、ヘッドホンの片方をいつも耳から後ろへずらしておくのだという。「自分の声も、いつも一緒に聞いているんです。交渉の場では、代表団の団長のすぐ後ろに座って、ささやき声で通訳することもあります。すると全員が私を見る。私が何か省いていないか、知りたいんです。そして夜になっても、私は自分を訳し続ける。私は、私自身の聴衆なんです」
「サルトルは、ひとりの男に鍵穴をのぞかせています」と私は言った。「嫉妬か好奇心から、すっかり夢中になって。すると、廊下に足音が聞こえる。とたんに彼は、もう見る者ではなく、見られる者になる」
「羞恥ですね」とF.は言った。「あの本は原書で読んで、それからドイツ語で読みました。翻訳で羞恥が小さくなるかどうか、確かめたくて」
「それで?」
「長くなります」
私は自分が何で生計を立てているのかを、ひとつの文で彼に告げた。彼の唇は、その文を最後まで聞き終える前に、声もなくもう一方の言語へ運んでいた。
「訳さないこと」と私は言った。「一度だけ、私が言ったとおりに聞きなさい」
彼はグラスを置いた。その沈黙は、彼がブースで自分に許すどんな間よりも長く続いた。それから彼はうなずいた。私はメールアドレスを記したカードを渡した。書くのはドイツ語か英語で、と私は言った。ひとつのメッセージに、ひとつの言語。外国語の単語はひとつも紛れ込ませないこと。「予防線を張らないとき、あなたがどんなふうに響くのか、聞いてみたい」
第3段落の「pourtant」
彼が書いてきたのは4日後だった。ドイツ語で。ただし第3段落に、「pourtant」(それでも)がひとつ。私はその箇所に印をつけ、何も書き添えずにメールを送り返した。次のメールには、混じりけがなかった。
望むことを、彼は用語集の見出し語のように書いていた。いま自分がどう見られているのかを、もう知らなくてすむこと。彼はマスクを望んでいた。恐れていることは、そのすぐあとに書いてあった。「耳は私の道具です。何も聞こえなくなったとき、自分がどうなるのかわかりません」
初めての邂逅の前には毎回そうするように、二人ですべてを確かめた。循環器は安定していて、服用中の薬はない。コンタクトレンズは、目隠しの前に外す。会議が立て続いた時期から、左耳にかすかな耳鳴りが残っている。耳の近くでは大きな音を立てないと、私は約束した。閉所恐怖症ではない、と彼は言った。一日じゅう、洋服だんすほどの大きさのブースで過ごしているのだから、と。私は半分だけ信じた。始めるのは目隠しから。フードを加えるのは、彼が暗闇とどう折り合うのかを見届けてからにする。
ルールは、彼が尋ねる前から決まっていた。使うのは、鼻と口をふさがないフードだけ。彼がそれをかぶっているあいだ、私は部屋を離れない。革の下では言葉が届きにくいので、セーフワードとあわせて手の合図を決める。右手をいっぱいに開き、指をすべて広げること。私が彼の肩を2回押したら、大丈夫かという問い。彼の指が2回握り返せば、答えはイエス。
セーフワードには、フランス語の単語を使いたいと彼は言った。私は断った。セーフワードは、口にされたその瞬間に私が理解できなければならない。本当に必要になったまさにそのときに、私のために彼が訳さなければならないようでは困る。1日たって、彼はひとことだけ書いてきた。「Saar」(ザール)。
「フランス語なら、Sarreになる」と私は返した。
「だからこそです。この言葉で、私はどちらかの側を選ぶんです」
取り決めは、半ページに収まった。ある午後、Studio 60で3時間。まず目隠し、次に革のフード。両手は体の前で手枷につなぎ、右手が開けるほどゆるくしておく。肌に跡が残らないこと。性交なし、オーラルセックスなし。それは交渉するまでもなかった。彼は部屋を予約し、スクリーンショットとデポジットを送ってきた。最後のメールには、マスクに「耐えたい」とあった。その動詞は間違っている、と私は返した。どの動詞が正しいのかは、教えなかった。
革、編み上げの紐、半ば開いた手
彼はマンハイムとシュトゥットガルトを経由するICEでやって来た。時間どおりに、しらふで、会議のためのスーツを着て。Studio 60で、私はまず彼を部屋の真ん中に立たせたままにした。コンタクトレンズは入れたまま。何ひとつ見逃さないように。そして私は、彼を見た。
長いあいだ、ひとことも発さず、身じろぎもせずに。私の視線は、彼が感じずにはいられない場所にとどまった。顔に、両手に、脈の打つのが見える喉もとに。1分ほどすると、彼は自分を直しはじめた。肩を、顎を、重心をもう一方の脚へ。私が何を見たいのかも知らないまま、彼は自分を、よりよい姿勢へと訳していた。
「そこまで」と私は言った。「レンズを」。彼はそれを外し、テーブルの上のケースにしまった。それから私は、彼に目隠しを結んだ。
二つ折りにした黒い布。どんな光も通さないほど密で、目をどこも圧迫しないほどゆるい。彼は聞こえるほどに息を吐いた。私は彼をクッションへ導き、ひざまずかせた。手首に手枷を閉じ、体の前で短いカラビナでつないだ。右手が自由に開けるように。それから私は腰を下ろし、黙った。
はじめ、彼は耳を澄ましていた。私の椅子のきしみへ、建物のどこかの扉へと、顔を向けて。やがて彼は話しはじめた。声を出さずに。聞こえたものを、自分に語って聞かせていたのだ。おそらくは二度ずつ。私は手のひらを彼の胸骨にあてた。「ここ。上ではなく」。唇が止まった。
20分後、私は目隠しの上からフードをかぶせた。革でできていて、内側はなめらか。後ろは編み上げで、鼻と口には開口部がある。耳の上には、あらゆる音を遠いざわめきに変える層が重ねてある。私はゆっくりと紐を締め、ひと引きごとに、首もとに指が2本入るかを確かめた。それから彼の肩を2回押した。指が2回、握り返してきた。ほとんど挑むように。
フードの下で15分が過ぎたころ、均衡が崩れた。映像も声もなくなると、左耳の耳鳴りが急に部屋でいちばん大きな音になった、と彼はあとで書いてきた。ブースの誰かが、彼自身のものを除くすべてのチャンネルを絞ってしまったかのように。私がまだそこにいるのか、そもそも誰かが自分を見ているのか、彼にはもうわからなかった。頭が探した。左へ、右へ。そして右手が開いた。半分だけ。指が広がり、動きの途中で止まった。
私はすぐさま彼のそばへ行った。片手を肩に置き、フードに口もとを近づけて、低い声で。「Saar?」
長い沈黙があった。それから彼は首を横に振り、手はゆっくりと閉じた。そうしなければならないからではなく、そうしたかったから。私は肩を2回押した。指が2回、ゆっくりと、はっきりと握り返してきた。「続けてください」と彼は言った。革の下で、その言葉は隣の部屋から聞こえてくるようだった。
「私はここにいる」と私は言った。「あなたを見ている。そこから何かをこしらえなくていい」
それから彼は静かになった。黙ったのではない。黙っていたのは、それより前からだ。静かになったのだ。肩が1センチ沈んだ。ブースの誰かがヘッドホンを外し、何年ぶりかで、すぐにはかけ直さなかったかのように。
フードを外して水を飲む休憩をはさみ、もう一度、前より長く革の下で過ごさせた。最後に私は紐をほどき、それから、落とした明かりのなかで目隠しを外した。彼はまばたきをした。私は彼のすぐ前に座り、何も言わずに彼を見た。彼は姿勢を直すことも、説明することもなく、私の視線を受けとめた。それが、その日彼が訳さなかった最初のものだった。
サルトル、鍵穴、そしてフード
サルトルは、他者のまなざしを一種の盗みとして描く。私ひとりが見ているあいだ、世界は私の目のまわりに秩序づけられる。誰かが私を見たとたん、世界は滑り落ちていき、私は物のなかの一つの物になる。他者に見られているとおりのものとして固定され、それが何なのかを知ることもないままに。羞恥とは、他者の前における自己についての羞恥である、とサルトルは言う。それがF.の人生だった。どう見られているのかを決して知らなかったから、彼は他者の手間を省き、自分で自分を見ていた。休むことなく、二つの言語で。彼は鍵穴であり、同時に廊下の足音だった。
『存在と無』のサルトルは、被虐を求める者にほとんど信を置いていない。その者は自分を他者にとってのまったくの対象にしようとして、失敗するほかない。対象としての自分を味わおうとすればするほど、このゲームを動かしているのが自分自身だと、いっそうはっきり感じてしまうからだ。最初の1分、私の前に立っていたF.は、まさにそうだった。私のために対象を演じながら、同時にその演出もしていた。
目隠しとフードは、その芝居を終わらせた。彼を隠したからではない。まず私の顔を、次には私の椅子のきしみまでも、彼から奪ったからだ。見られているかどうかが見えない者は、もう視線に合わせて自分を整えることができない。わかるのは、誰かがそこにいるということだけだ。彼の手が半ば開いた瞬間、サルトルの描く秩序は崩れた。その向こうにあったのは、無ではなかった。クッションの上で息をし、つばを飲み込むたびに革がきしむのを聞いている、ひとりの男だった。
ニーチェは『善悪の彼岸』に書いた。「すべて深いものは、仮面を愛する」。オスカー・ワイルドは『芸術家としての批評家』で、さらに先へ進んだ。人は自分自身として語るとき、もっとも自分自身から遠ざかる。仮面を与えれば、真実を語るだろう、と。F.は、仮面の下ではほとんど話さなかった。彼の真実は、やめることそのものだった。
では、力は?あの部屋で視線を持っていたのは、ただひとり。私だ。この不均衡こそがマスクトレーニングの核心であって、副作用ではない。けれど自由は、ずっと同じ場所にあった。4文字の言葉と、開くことのできる右手のなかに。サルトルなら、そこに自由からの逃避を見たかもしれない。私が見たのは、しばらくのあいだ自分がどう見えるかを選ばずにいるために、自由を使うひとりの男だった。彼はその言葉を持っていて、使う必要がなかった。献身と消失の違いは、そこにある。
ザール川は言語を問わない
そのあと、紅茶を飲みながら、彼はドイツ語で話した。ドイツ語だけで。そしてはじめて、すぐに言葉を見つけるのではなく、言葉を探した。「『耐える』は間違いでした」と彼は言った。「耐えるのは、自分の意志に反して起こることです」。彼は「受け入れる」と言ってみて、次に「受け取る」と言い、それから笑った。フードの下で起きたことを言い表すきちんとした言葉は、彼の二つの言語のどちらにもなかった。そして、たぶんそれでよかったのだ、と。
その晩、彼は帰っていった。あとで書いてきたところでは、列車のなかで4時間半、眠らずに目を閉じていたという。
次のメッセージが届いたのは、クリスマスの少し前だった。彼はザンクト・ヨハナー・マルクトへ行き、クリストキンドル・マルクトの屋台のあいだに立ったのだという。噴水の近く、人混みのただなかに。まわりではドイツ語とフランス語とザールラントの方言が入り乱れていた。そして彼は目を閉じた。1分のあいだ、何ひとつ訳さなかった、と彼は書いていた。声はただの声だった。水が水であるように。
それから、彼はアルテ・ブリュッケまで下りていった。橋の建設が始まったのは1546年、伯爵フィリップ2世のもとでのこと。その前に、皇帝カール5世が洪水に阻まれ、ここで何日も川を渡れずにいた。いま渡るのは、歩行者と自転車だけだ。ザール川はヴォージュ山脈に源を発する。向こうではSarre、こちらではSaarと呼ばれ、どう呼ばれようとかまわずに、アーチの下を流れていく。「川は訳しません」と彼は書いていた。「ただ、たどり着くだけです」
それには返事をしなかった。答えではなく、何も付け加えない視線を求める文がある。それは、次に彼が私の前にひざまずくときに与える。
いまザールブリュッケンを思うとき、私がまず目に浮かべるのは、市場の人混みのなかで目を閉じているひとりの男だ。まわりには二つの言語があり、そのどちらも彼の仕事ではない。そして橋のアーチの下には、フランスから来て、どの言語でたどり着くのかを問わない川が流れている。
ゲストブックから届いた2つの声
F.は作りごとだ。続く2つの書き込みは違う。実在のゲストが私のゲストブックに書いたもので、ザンクト・ヨハナー・マルクトの通訳者とは何の関係もない。物語と並べて置くのは、物語に出てくる2つのことを、彼らが自分自身の経験から語っているからだ。言葉のない視線と、ひとつの動詞が生む違い。
「彼女は私を罵らなかった。屈辱を与えもしなかった。私がひざまずいているあいだ、彼女は私を見つめていた。何も言わずに。それだけだった。そしてそれが、私に必要なすべてでもあった」——ハンブルクのゲスト、ゲストブックの書き込み(ドイツ語から翻訳)
「痛みとは耐えるものだと、ずっと思い描いていた。痛みとは受け取るものなのだと、彼女は私に示した。違いは、その言葉のなかにある。受け取ることの言語を、Mistress Alexaは私に教えてくれた。これ以上は言えない。また来る、ということのほかには」——ゲストブックの書き込み(ドイツ語から翻訳)
実際のセッションでのマスクトレーニング:物語のうち、当てはまること
物語は、現実を凝縮して描く。現実には、どのマスクトレーニングの前にも話し合いがある。経験について、リミットについて、あなたの体について。循環器、服用中の薬、アレルギー、目と耳、コンタクトレンズ、閉所恐怖症の傾向。こうしたことはすべて、私が前もって知っておく。できれば、Safe Room(会員エリア)のプロフィールから。同意・健康状態・責任に関する宣言書に同意するまで、リクエストは私のもとに届かない。
マスクとフードについて、私は決まったルールを守る:
- マスクもフードも、鼻と口はいつもふさがずにおく。首もとにも余裕を残す。
- 着けているあいだ、私は部屋を出ない。
- 革やラテックスの下では言葉が届きにくい。だからセーフワードのほかに、手の合図も取り決める。どちらを使っても、シーンはすぐに終わる。
- ときどき、触れて、あるいは声で、様子を確かめる。返ってくるべきは、勇ましい答えではなく正直な答え。
- 閉所恐怖症の傾向があるなら、目隠しから始める。フードはあとから。あるいは、まったく使わない。
マスクトレーニングは料金に込み。手枷、ロープ、ベルトによる拘束も、ラバーとラテックスも、同じく込みだ。ヘビーラバーは最低120分、マミフィケーション(全身を包み込む拘束)は最低90分。いずれも別途Studio 60のルーム料金がかかる。性交なし、オーラルセックスなし。
フードとそのルールについてはマスクトレーニングに、素材についてはラテックスとヘビーラバーに詳しく書いた。リミット、セーフワード、シーンの中断をどう扱うかはリミットと安全に、最初の予約で何が待っているかは初めてのセッションにある。
ザールブリュッケンからStudio 60へ:列車、計画、守秘
ザールブリュッケン中央駅からミュンヘン中央駅までは、ICEがカイザースラウテルン、マンハイム、シュトゥットガルトを経由して走る。いちばん速い便で4時間あまり、多くは4時間半〜5時間近くかかる。乗り換えなしで行ける列車は、1日に多くても2本。それ以外は乗り換えがあり、マンハイムで乗り継ぐことが多い。ザールルイやノインキルヒェン、あるいはフランス側から来るなら、ザールブリュッケン中央駅までの道のりも計画に入れておくこと。ミュンヘン中央駅から先は、Sバーン(近郊電車)か地下鉄(Uバーン)を使う。正確な住所は、私が確定し、デポジットが届いてから伝える。
ザールブリュッケンから来るゲストへ、いくつかの注意:
- 早めにリクエストし、時刻は時刻表に合わせて選ぶこと。片道4時間を超える移動なら、夜遅くに1時間だけ過ごすより、午後早くに始めるか、3時間のインテンシブを選ぶほうが理にかなうことが多い。
- リクエストした時間にぴったり合わせてStudio 60の部屋を予約し、支払いを済ませて、スクリーンショットを私に送ること。
- 時間どおりに、しらふで着くこと。車内ビストロがすぐそばにある長旅のあとでも。列車が遅れたら、すぐに私に知らせること。連絡のないまま30分遅れた時点で、その予約は無断キャンセルとみなす。遅れた分、セッションが延びることもない。
- 帰りの列車を、ぎりぎりに組まないこと。マスクトレーニングのあと、世界がいつもの音量に戻るまで、目と耳には数分が必要だ。
守秘は互いに。誰のもとで働いているのかを、私は尋ねない。スタジオで起きたことは、スタジオにとどまる。移動する前に、話の通じる相手かどうかを確かめたいなら、リモートセッションから始めればいい。西にあるもうひとつの州都を舞台にしたのが、ヴィースバーデンのドミナだ。