ハンブルクから来るゲストへ:セッションはミュンヘンで、貢ぎ物はビデオ通話でも
文字どおりに取れば、私はハンブルクのドミナではない。ゲストを迎えるのはミュンヘンのStudio 60で、ほかのどこでもない。ハンブルクから来るゲストにとって、手順は何も変わらない。変わるのは計画だけだ。
- カレンダーで形式を選ぶ。1時間、3時間のインテンシブ、45分のリモートセッションのいずれか。あわせて日と時刻も選ぶ。
- するとWhatsAppかTelegramが開き、料金と受付番号の入ったリクエストが、もうあなたのために書き上がっている。予約が確定するのは、私自身が確認したときだ。
- €50のデポジットで日時を押さえ、その額は料金から差し引く。Studio 60の部屋は、スタジオに直接、自分で予約して支払う。
- 残額は、セッションの始めに現金で私に渡す。
1時間がいくらになるかは料金と予約にある。南への旅をしたくないなら、ビデオ通話で私に会える。リモートセッションは45分、€180から。貢ぎ物とフィンドム(金銭による支配)が私のレパートリーに確かな位置を占めているのは、そこだ。私が話すのはドイツ語と英語で、やりとりもこの二つの言語で交わす。私が貢ぎ物をどう考えているかは、エッセイ貢ぎ物とフィンドムに詳しく書いた。
夜のハンブルク:キーツ、ブンカー、レザーシーン
ハンブルクで夜に出かければ、遅かれ早かれザンクト・パウリ、地元でキーツと呼ばれる界隈にたどり着く。レーパーバーンとシュピールブーデンプラッツのまわりには、劇場、ライブハウス、バーがひしめいている。毎年9月には、レーパーバーン・フェスティバルが4日間にわたってこの地区を舞台に変える。次回は2027年9月15日〜18日の開催が告知されている。グローセ・フライハイト通りにはライブハウスのGroße Freiheit 36があり、その地下にはカイザーケラーがある。1960年、まだ誰にも知られていなかったビートルズが演奏した店だ。建物はいまもコンサート会場として使われ、数歩先、レーパーバーンとの角では、ビートルズ広場(Beatles-Platz)がその名を伝えている。
地区の反対の端、ハイリゲンガイストフェルトには、第二次世界大戦中に建てられた高射砲塔がそびえている。その4階(日本式に数えれば5階)に入っているのが、クラブのUebel & Gefährlichだ。パーティーに入れるのは18歳以上だけで、例外はない。2024年7月からは、全長約560メートルの山道が建物の外側をめぐり、緑に覆われた屋上へと続いている。いまでは、グリューナー・ブンカー(緑のブンカー)と呼ばれる建物だ。
レザーとフェティシズムには、この街ではっきりと目に見える伝統がある。レザーやフェティシズムを好む男性たちが集う団体MSC Hamburgは、定期的に集まりを開いている。ハンブルクのプライド(CSD)に合わせて、この団体はKinkFusionという名の週末を催し、そこでMr. Leather Hamburgが選ばれる。2026年は7月30日〜8月2日、ザンクト・パウリとザンクト・ゲオルクで開かれた。日程を探すなら、この団体か各クラブに当たること。私のところにはない。
ハンブルクにも、プロのスタジオはある。名前はひとつも挙げないし、リンクも張らない。このページは、私との邂逅のためにミュンヘンまで旅をする、すべての人に向けたものだ。
エルベ川の37メートル上で
7月のその晩、私がハンブルクにいたのは彼のためではなく、大ホールでのコンサートのためだった。チケットを持っていれば、開演の2時間前からプラザに出られる。街が私を見る前に、上から街を眺めておく。そういう時間の使い方が、私は好きだ。ここで誰もがただ「チューブ」と呼ぶエスカレーターは、古い倉庫を貫いて、2分半で人を上へ運ぶ。ゆるやかな弧を描く、82メートル。その淡い色の壁には、約8,000枚のスパンコールが埋め込まれている。滑るように通り過ぎると、それは誰かが無造作にばらまいた小銭のようにきらめく。
上に着くと、下の倉庫にならった赤れんがの床が広がっていた。その外周の通路で、一人の男が英語で電話をしていた。話題は、一日あたりの用船料と積出港、停泊期間と滞船料。相手が最後には折れると知っている者だけが持つ、ゆとりのある話しぶりだった。頭上ではファサードが大きなアーチのひとつを描いて立ち上がり、その内側に、額縁に収まったように港が広がっていた。ノルダーエルベ(エルベ川の北の流れ)の向こうのドックとクレーン。船体を流れへと押し出していくタグボート。傾いた夕方の光に輝く水面。
電話を切ると、彼は私が聞いていたことに気づいた。「この建物にいくらかかったか、ご存じですか?」と彼は尋ねた。知っていた。市が当初見込んでいたのは€7,700万。最終的に、建設費は約€8億6,600万にのぼった。「10倍以上ですよ」と彼は言った。「それがいまでは、毎日何千人もがここに立って、美しいと言う。もう誰も勘定なんかしない」
「だからこそ、それだけの価値があるのかもしれません」と私は言った。「それだけの代償を払ったから」
彼は笑った。他人の計算違いを笑うときのような、礼儀正しい笑いだった。あとで知ったことだが、彼は海運ブローカーだった。船主と用船者のあいだに立って運賃を取り決める。この業界に30年いて、何が返ってくるかを知らないまま手放したものは、ひとつもなかった。私は彼に、ゲオルク・ジンメルの話をした。1900年に、貨幣をめぐる分厚い本、『貨幣の哲学』を世に出した人だ。ジンメルによれば、価値は物そのものに宿るのではない。それを手に入れるために何を差し出すか。労働を、時間を、断念を。価値はそれによって測られる。ジンメルはそれを犠牲と呼んだ。私は献身と呼ぶ。
「献身」と彼は繰り返した。まるで私が、彼の取引所では扱われていない通貨の名を口にしたかのように。
足もとのカイシュパイヒャー(岸壁の倉庫)には、かつてカカオや茶やたばこが蓄えられていた。ハンブルクの人々はそれを「カカオブンカー」、カカオの掩蔽壕と呼んだ。私は彼に、自分がミュンヘンのドミナであること、そして交渉はしないことを告げた。それでも彼は、私の料金を尋ねた。ブローカーは、いつだって値段を尋ねる。「料金ならサイトに載っています」と私は言った。「本当に知りたいことは、どこにも書いていない」。会話はドイツ語だった。私が彼をdu(親しい相手に使う二人称)で呼んだのは、このときが初めてで、彼はそれに気づいた。別れぎわに彼が言うには、プラザの入場券は入口でただでもらったのだという。新聞によれば、10月からはここからの眺めに€5かかるらしい。「では、お金がかかるようになったら、また来なさい」と私は言った。「そして、眺めがよくなったかどうかを私に伝えること」。彼に教えたのは私の名前だけ。それ以上は何も。探す者なら、そこから私への道を見つける。それから私はホールに入り、港の前に彼をひとり残した。
借方と貸方
最初のメッセージは4日後に届いた。それは申し出だった。枠組み、期間、金額。解約条項まで考えてあった。私は一文だけで返した。交渉はしない、と。2日間、何も来なかった。それから彼はもう一度書いてきた。前より短く、数字はひとつもなかった。プラザで私が何を言おうとしていたのかを、理解したいという。
事前の話し合いは、まず文面で、続いて電話で30分。貢ぎ物の前にはいつもそうするように、念入りに行った。私が知りたかったのは、ほかの誰にも不足を感じさせずに、彼が毎月いくらなら手放せるかだった。彼が金額を挙げ、私はそれを上限として書き留めた。たとえ彼自身が超えたいと望んでも、上限は動かない。借りた金は使わない。ローンも組まない。家族の暮らしを支える口座からは何も出さない。彼はいつでも、理由を言わずにやめられた。彼が自分について話したことを、私が彼に不利に使うことは決してない。毎日飲んでいる高血圧の薬のこと、右肩の古いけがのことも、彼は話した。セーフワードには「Lotse」を選んだ。ドイツ語で水先案内人のことだ。水先案内人とは、エルベ川では船長でさえその言葉に従う男のことなのだ、と彼は言った。途中で様子を確かめるために、色も決めた。「Green」(緑)は続けて、「Yellow」(黄)はゆっくり。言葉が出なくなったときのために、手の合図もひとつ。
それから彼は、守るべき手順を受け取った。紙の帳簿を一冊買うこと。かつてハンブルクの商館でつけられていたような、Soll(借方)とHaben(貸方)の二つの欄があるものを。簿記係は、自分の規則に従って両側を埋める。私はその二つの欄に、私の規則を与えた。書いてよいのは借方の欄だけ。その週、何の見返りも受け取らずに与えたものを書く。30年間、自分に支払われるべきものを記帳してきた貸方の欄には、何ひとつ書いてはならない。毎週日曜の21時、彼はビデオ通話で、その週の記録を45分かけて私に読み上げた。月に一度、私が指定した方法で貢ぎ物が届いた。上限の範囲内で、ひとことも添えずに。私はそれに一度も触れなかった。
最初の週は空白だった。彼は証拠品でも見せるように、帳簿をカメラにかざした。「何も与えていません」と彼は言った。「持っているものは全部、もう誰かに支払うべきものだからです」。私はその言葉を宙に浮かせたままにした。彼自身が耐えられなくなるまで。そしてセッションを10分早く切り上げた。2週目には、3行あった。
滞船料
3週目、彼は金で試してきた。貢ぎ物は約束より早く、前の月より多く、上限ぎりぎりの額で届いた。今回は一文が添えられていた。その代わりに、もっと早くミュンヘンへ行かせてほしい、と。私はその日のうちに金額を送り返し、次の日曜を取り消した。条件つきの貢ぎ物は、請求書だ。そして私の請求書は、私が自分で書く。
のちに彼は、滞船料とは何かを私に説明した。船が取り決めより長く岸壁に留まれば、用船者は待った日数の分だけ支払う。彼の世界では、待つことにさえ一日あたりの値段がつく。2週間、私は彼を岸壁に留め置いた。返事もなく、予約もなく、あるのはつけつづけるよう命じた帳簿だけ。彼はそこに、私とは何の関係もないことを書いた。若い同僚に取引をひとつ譲り、自分がそこで果たした役割には触れなかったこと。兄弟との言い争いで、自分のほうが先に折れたこと。そして、ほかのどの行よりも彼について多くを語る一行。「待った。勘定はしなかった」
画面越しにふたたび会ったとき、彼は前より疲れて見え、前より落ち着いて見えた。彼は理由を尋ねなかった。ミュンヘンへ行ってもいいかと尋ね、今度は、その問いに何も懸かっていなかった。私はカレンダーを示した。彼は午後の時間と、3時間の形式を選んだ。Studio 60では部屋をゲスト自身が予約して支払うので、彼は予約のスクリーンショットを、何のコメントもつけずに送ってきた。何週間もあとに彼が書いてきたところでは、それは職業人生で初めて、値引きを求めずに支払った請求書だったという。
数えないままの封筒
彼はICEで来た。ハンブルク中央駅から6時間弱。しらふで、時間きっかりに。料金の残額は、決まりどおり、始めに現金でテーブルに置いた。その横に、料金とは関係のない封筒をひとつ置いた。今月の貢ぎ物だ。この日は現金で、と私が決めていた。額は、彼が自分で引いた上限の範囲内。彼はその金額を私に言わず、私も尋ねなかった。それから、命じておいたとおり、テーブルから一歩離れたところで、私が用意したクッションの上にひざまずいた。彼の肩が封筒のほうへ向かなくなるまで、私は彼をそのままにしておいた。
手首に革の枷を巻き、指を2本差し入れて、革の下にまだ余裕があるかを確かめた。肩のことがあるので、両手を背中で縛ることはせず、腕を上へ引き上げることもしなかった。体の前で、手首と手首をつないだだけだ。肩が静かに休んでいられるくらい、ゆるく。「言葉は?」「Lotse」「話せなくなったら?」彼は右手を3回、開いて閉じた。電話で決めておいた合図だ。
私は彼の向かいに座り、帳簿を開いた。7週間分の記録が、小さく詰まった几帳面な商人の筆跡で並んでいた。私は一行ずつ声に出して読み、読むたびに同じことを尋ねた。「その見返りに、何を得た?」最初の何回かは、彼は従順に答えた。「何も」。やがて彼は、自分でも気づかないまま交渉を始めた。その見返りに心の落ち着きを得た、と彼は言った。やましさのない良心を。同僚の敬意を。「それは見返りの記入」と私は言った。「消しなさい」。彼は頭のなかで、見返りの記入をひとつずつ消していかなければならなかった。ひとつの欄を空のままにしておくことが、商人にとってどれほどの力を要するか、私は彼の顔に見てとった。
それから、私は封筒を手に取った。彼は目を上げた。許しを得ずに目を上げたのは、これが初めてだった。私が数えるところを見たかったのだ。私は数えなかった。封も切らなかった。そのままバッグにしまい、バッグを閉じた。「でも、いくら入っているかもご存じないのに……」と彼は言いかけた。古い癖がよみがえったように、改まった二人称のSieに戻って。「そのとおり」と私は言った。
そのあと、私はもう何も言わなかった。彼はひざまずき、私はその前に座って、ただ彼を見ていた。命令も、称賛も、侮辱もなく。誰も満たさない1分は長い。3分を過ぎると彼の呼吸は乱れ、5分を過ぎると静かになった。いつのまにか私は時間を計るのをやめ、彼もやめていた。「いま、どこにいる?」と尋ねると、彼は色を見つけるのに少し時間がかかった。「Green」(緑)と彼は言った。いつもより深いどこかから出てくるような声で。
ジンメルが犠牲について知っていたこと
ジンメルには、彼のような男たちに私が好んで読み聞かせる一文がある。「犠牲は、浅薄さと貪欲が信じこませたがるのとは違い、決して、あるべきでないものの範疇に属してはいない」。商人が学ぶのは、その逆だ。商人にとって犠牲とは、小さく抑えておくべき費目であり、与えることはすべて、取引の前半にすぎない。7週間、彼はドイツの簿記係がSollと見出しをつける欄に書きつづけた。ジンメルがとうにその語を説明していたとは、思いもせずに。Sollは、ドイツ語で「あるべきもの」をも意味する。そして犠牲は、あるべきものに属している。
ジンメルは貨幣を「道具のもっとも純粋な形式」と呼ぶ。あらゆる目的に役立つからこそ、貨幣は多くの人にとって、絶対的な手段から絶対的な目的へと変わる。彼はそう描いている。私の海運ブローカーが30年住みついていたのは、まさにそこだった。目的になってしまった手段のなか。運賃、利ざや、一日あたりの料金。それらはあらゆることを説明してくれたが、何のためなのかだけは説明しなかった。貢ぎ物は、この動きを逆にする。お金をふたたび手段に戻す。ただし商品のためではなく、二人の人間のあいだの、決して清算できない関係のための手段に。封を切らないままの封筒は、私にとって何の金額でもなかった。だからこそ彼にとっては、もはや何にも換算できない重さを帯びた。
あの部屋での私の力は、彼の金を受け取ることにあったのではない。私はいつでもそれを拒めたし、一度は実際に拒んだ。力は、見返りの記入を彼に許さないことにあった。礼の言葉、受領証、称賛。それがあれば、彼は与えることをふたたび交換に変えていただろう。そして彼の自由は、境界がないことにあったのではない。上限は彼が自分で引き、ひとこと口にすれば、すべてを終わらせることもできた。けれどその線の内側でなら、外の世界では一度もできなかったことが許された。何が返ってくるかを帳簿につけずに、与えること。
ジンメルは、その対極も知っている。自分の差し出すものを、ただ「与えることを許される」というだけで「それ自体がすでに利得」となる交換がある、と彼は書く。愛に愛で応えること。誰も貧しくならない会話。経済的な交換を、彼ははっきりとそこから除外している。そこでは、どんな贈り物も、ほかにも使い道のあったはずの財の犠牲を意味するからだ。貢ぎ物は、まさにその境界の上に立つ。それはお金であり、手放せば欠けてしまう財だ。それでいて、まなざしやひとことのように与えられる。枷を外し、手首を指でたどって確かめ、水を渡したとき、彼も似たようなことを言った。ただし、彼の港の言葉で。自分はずっと積荷を運んでいるのだと思っていた。いまは、バラストを海へ投げ捨てたような気がする、と。
眺めの代価は€5
そのあとの時間に二人が何をしたかは、この物語には入らない。最後に彼は、私が座っていた椅子に、肩に毛布をかけて座り、ゆっくりと水を飲んだ。封筒の中身を、私は彼に言わなかった。自分でも知らなかったからだ。その晩も、私は封筒を開けなかった。翌朝、彼は列車で北へ帰っていった。
数週間後、10月の初めに、ハンブルクからメッセージが届いた。またプラザに上ったという。入場が有料になった最初の週の、よく晴れた夕方に。チケットは€5。レシートも見ずに払い、スパンコールの横を「チューブ」で上っていった。前と同じアーチのところに立った。れんがの上、空を映す湾曲したガラスの下に。タグボートは夏と同じように船の向きを変えていた、と彼は書いていた。眺めは少しもよくなっていなかった。ただ、それが払うに値するかどうかを、初めて勘定しなかったという。
添えられていたのは、帳簿の写真だった。文字の書かれた最後のページ。借方の欄に、あの詰まった筆跡で「プラザ。€5」。貸方の欄には何もない。私は返事をしなかった。彼も、もう返事を待ってはいなかった。いまハンブルクを思うとき、私に見えるのはレーパーバーンでも、ミヒェル(聖ミヒャエリス教会)でもない。夕方の光のなか、エルベ川を見下ろす縁に立つ一人の男だ。眺めに代価を払い、その見返りに何を得るのかを、知ろうともしない男。
ゲストブックに寄せられた二つの声
次の二つの書き込みは本物だ。私のゲストブックにドイツ語でそのまま載っているもので、ここでは忠実に訳している。書いたのはゲストであって、物語の登場人物ではない。海運ブローカーとも関わりはない。二つ目の書き込みが、そこに記されているとおりハンブルクから寄せられたものであっても。
「私は、自分の金を軽々しく手放すような男ではない。仕事では毎日、Mistressへの私の貢ぎ物など小さく見えるほどの金額をめぐって交渉している。それでも、ここで与えることは違う。損失ではない。安堵だ。自分でも、すっかりわかっているわけではない。けれど、このつながりは揺るがない。そして与えることは、その一部なのだ」——T.、弁護士、51歳、ゲストブックの書き込み(ドイツ語から翻訳)
「彼女は私を罵らなかった。屈辱を与えもしなかった。私がひざまずいているあいだ、こちらを見つめ、何も言わなかった。それだけだった。そして、それが私に必要なすべてだった」——ハンブルクのゲスト、ゲストブックの書き込み(ドイツ語から翻訳)
物語の二つのモチーフは、これらの書き込みから来ている。仕事で交渉を重ねる男と、ひざまずく者の上に落ちる沈黙。言葉そのものは二人のゲストのものであって、海運ブローカーのものではない。
現実のセッションでの貢ぎ物とフィンドム
物語は、現実にはもっとゆっくり起きることを凝縮している。私のもとで、貢ぎ物とフィンドムはリモートセッションのレパートリーに属する。Studio 60での邂逅に貢ぎ物が加わるかどうか、加わるならどんな形でかは、事前の話し合いで決める。貢ぎ物が料金の一部になることはなく、私が貢ぎ物を求めることもない。料金そのものは決まっている。1時間€250、20時以降に始まる1時間は€300。これに、Studio 60に支払うルーム料金が加わる。料金について交渉はしない。
最初の貢ぎ物の前には、私が真剣に向き合う問いがある。
- 上限:ほかの誰にも不足を感じさせずに手放せる金額を、あなたが挙げる。あとでもっと与えたくなっても、それが上限であり続ける。
- 出どころ:借金はしない。ローンも使わない。家族が暮らしの頼りにしている金には、手をつけない。
- やめる自由:理由を言わずに、いつでもやめられる。あなたが打ち明けたことを、私が圧力の材料に使うことは決してない。守秘は互いに。
- セーフワード:セッションでもビデオ通話でも効力を持ち、どんな行為もすぐに止める。言葉が出なくなったときのために、言葉を使わない合図も決めておく。
- 健康:心臓・循環器、服用中の薬、古いけがは、前もって伝えること。いちばんいいのは、Safe Room(会員エリア)のプロフィールに書いておくことだ。
物語に出てくる尋問、屈辱、拘束は、1時間料金に込み。性交なし、オーラルセックスなし。リミットと中断を私がどう扱うかはタブー、リミット、安全に、与えることそのものがなぜ服従なのかは、エッセイ貢ぎ物とフィンドムに書いた。
ハンブルクからStudio 60へ:移動と計画
ハンブルク中央駅からミュンヘン中央駅までは、ICE(高速列車)が乗り換えなしで1日に何本も走っている。速い便で6時間弱、ほかはそれよりかなり長くかかる。飛行機なら空の上にいるのは1時間あまりだが、両方の空港への行き来を計算に入れなければならない。ミュンヘン空港から市内へは、Sバーン(近郊電車)で40〜45分ほど。スタジオの正確な住所を伝えるのは、私が確定し、デポジットが届いてからだ。
エルベ川のほとりから来るゲストに、私が勧めること。
- 早めにリクエストする:6時間かけて来るなら、当日の朝に日時を選ぶものではない。ぎりぎりの1時間より、午後の時間か3時間のインテンシブのほうが、この距離に見合う。
- 余裕を組み込む:遅れても、セッションは延びない。連絡なしで30分以上遅れた者は、無断キャンセルとみなす。列車は1本早めに。
- しらふで着く:ビストロ車両のビールは、そのまま置いておくこと。酒を飲んできた者を、私は迎え入れない。
- 部屋を予約する:Studio 60の部屋は自分で予約して支払い、予約のスクリーンショットを私に送ること。
- 内密に:二人のあいだで起きることは、二人のあいだにとどまる。どちらの側でも。
ミュンヘンに泊まるなら、ホテルからスタジオへ来ればいい。キールとブレーメンからも、道のりは同じくらい長い。どちらの街にもそれぞれの物語があり、キールのドミナとブレーメンのドミナで読める。